

焼津神社境内にある日本武尊の石像
焼津の地名の由来は古く、日本書紀の日本武尊(やまとたけるのみこと)が向い火を放って賊を討ったという神話から来ています。



お正月の焼津港。富士山をバックに大漁旗を掲げて。
焼津での鰹漁は戦国時代からは行われていたらしいのですが、
港としての地形が無く、荒浜に漁獲した魚を直接上げていました。
戦国時代に甲斐(現在の山梨県)の武田氏と駿河の領有を争っていた徳川家康が焼津の鰹漁船を徴発したと言われています。従来の漁船は櫓(船を漕ぐ櫂)が7本でしたが、速力を増すため、焼津の漁船だけは8本の櫓を使用することを許されました。以来、江戸時代に入っても焼津の漁船は日本でも唯一「八丁櫓」を許され、漁業を行ってきました。

現代に復元された八丁櫓の船
今や日本でも有数の漁港として知られる焼津港ですが、
その歴史は意外と新しく、人工港として造られたのは太平洋戦争後のことです。
焼津港が遠洋漁業の基地として興隆を始めたのは、昭和初期からです。次々と100トンを超える鋼鉄製の漁船が建造され、遠洋鰹漁業により、昭和12年には900万尾の鰹の水揚げを記録するまでに発展します。
戦後の荒廃期を過ぎ、焼津では、本格的な築港運動が始まります。本格的な港を造ろうという運動は大正期から始まっていましたが、戦争によって一時中断され、昭和25年の秋には150トンクラスの漁船が直接岸壁に接岸できる港が完成しました。




小泉八雲記念館
明治時代の著名な「日本の紹介者」であり、「怪談」「骨董」等の作品で有名な文豪、小泉八雲(旧名:パトリック・ラフカディオ・ハーン)。彼は1890年にアメリカから日本に移住し、日本に帰化し、名前を「小泉八雲」と改めます。
明治30年8月、小泉八雲は夏の休暇を過ごすために初めて焼津を訪れます。
焼津の海岸と海、そして焼津の町と人々の人情が大変気に入った八雲は以後、数年間の夏を焼津で過ごします。
焼津で過ごした日々の体験の中から「焼津にて」や「乙吉のだるま」という作品が生まれました。
記念館には、八雲が見つけた古き良き焼津の人々との生き生きとした交流を示す貴重な資料がたくさん展示されています。


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